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本尊 阿弥陀如来

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「西光寺阿弥陀如来縁起」によれば、当山の本尊、阿弥陀如来は、法然上人が刻まれたものを親鸞聖人に贈られ、聖人がおまつりされていた。
聖人が越後国東城郡に流罪になったときも、ともに仏像をお移しし、おまつりされていた。しかし赦免となり京都へ帰られるに際し、熱心な信者であった東城郡美須村の垂井新五郎に授与された。
その後、年月を経て当西光寺の開山となられた遊向上人が修行のため、諸国を廻られていたとき、東城郡美須村へ来られ、同村の垂井新左衛門の家に3日間泊まられ、浄土の法門、他力易行の法を諄々と説かれた。
新左衛門夫婦は感涙にむせび、「お厨子の中の仏様は親鸞聖人が29歳の時、法然上人から頂かれた阿弥陀様です。それを我が先祖の新五郎が親鸞聖人から頂いたものですが、私たち夫婦は、もはや60歳を越えこどもがございません。私たちの死後には仏様が粗末になってしまわれることをおそれます。
お坊さまが当家にお泊まりになったのも深い因縁と存じます。どうかこの仏様を差し上げますので、大切におまつりしていただけませんか」ということであった。
遊向上人は大変悦ばれ、その仏像を背負って播州へ帰られ、師匠の時光寺開山、時光上人に申し上げた。
上人も非常に悦ばれ、遊向上人を開山として、西光寺が開かれたのである。
なお当西光寺は創建以来700年になるが、鑑定者によれば、この本尊は寺より古いということである。
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弘法大師

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西光寺開山、遊向上人は元四国、松山の地頭であり、記録によれば、松山の四国八十八ヶ所第四十九番札所、浄土寺の大旦那(有力信者)であったとされている。
播磨で出家をされたが、伝承では念持仏の形で、弘法大師像をもってこられたということである。
その関係からか、西光寺では弘法大師をおまつりしていて、元真言宗の檀信徒の方も多い。
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曼陀羅

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当麻曼陀羅、または浄土曼陀羅ともいわれ、観無量寿経というお経の中に説かれている極楽浄土をあらわしている。
「縁は南無、中は阿弥陀の曼陀羅華、やがて六字の姿なりける」という古歌にあるように、南無阿弥陀仏によって仏様に抱かれた私たちの世界が示されている。
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