義経と武蔵


義経と武蔵

 平成17年のNHK大河ドラマはご承知のとおり「義経」であり、源平に関係ある全国の各地は賑わった。
 ところで源義経と宮本武蔵といえば、全く関係がないようであるが、武蔵円明流といって、武蔵が伝えた剣術の流儀の系図には、岡本家の名前とともに円明流の始祖として、源九郎判官義経公と記されている。
 そして幼い頃、鞍馬山で修業したと述べられているが、これには諸説ある。天狗から教えられたというのが昔からの伝承であるが、源氏の家臣が手ほどきをしたとも鬼一法眼であったという説もある。
 円明流の継承図によれば、この流儀は当初義経流といわれたが、頼朝、義経の不和により頼朝を憚って陰流といわれた。
 これは二つに分かれ、一方は愛州移香斎、上泉信綱を経て新陰流として柳生家に伝えられたという。
 もう一方は八尾別当顕幸を経て楠木正成に伝わり、正成から後に別れることになるが、ともに建武の中興をめざして戦った赤松円心に伝授された。
 米田の土地は将軍、足利義教から赤松教貞が拝領したものであるが、ここを支配した赤松氏は後に田原氏、岡本氏と姓を改めた。
 そして田原甚右衛門家貞の次男として生まれたのが武蔵である。
 岡本家は赤松姓から岡本三河房祐次の時に初めて岡本姓を名のり代々米田に居住した。
 赤松、田原、宮本氏と同族であるというところから円明流を承継し、系図の中には襲名された岡本藤市郎の名も見える。
 いずれにせよ義経も武蔵も特定の師を持たなかった。つまり伝統的な型にはまったものではなく自由奔放な戦いぶりであった。
 円明流の流れをくむとされる楠木正成、赤松円心にしてもその戦法はユニークなものであったようである。
 なお宮本武蔵・伊織顕彰会が所蔵する『五輪書』は楠木家本として、代々楠木家に伝えられていたものであり、円明流も現在義経に因んで円明流判官派として多くの人たちが研鑽している。
 また当西光寺の開山は伊予の地頭をしていた川越(河越とも書かれた)四郎兵衛信義が出家したもので、義経の正妻は源氏の重臣、河越重頼の娘で川越(河越)氏は埼玉県川越市から興ったものである。


来迎山西光寺
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