西光寺の由来


沿革

本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗西山禅林寺派
本山 〒606-8445
京都市左京区永観堂町48
永観堂 禅 林 寺
TEL: (075)761-0007
FAX: (075)771-4234
開創 開創は鎌倉時代中期の建治元年(1275)である。開山は伊予の地頭、川越四郎兵衛信義という武将が、発心出家の志を懐き、播磨へ至り、阿弥陀、時光寺の開山、時光上人の弟子となり、遊向上人と称され西光寺を開かれたものである。
因みにこの川越氏は現川越市から興り、源義経の正妻が川越氏の出身であったように、源氏の重臣であった。そして源頼朝が全国に守護、地頭を配したときか弘安の役後、幕府が地頭を西国の護りのために配置したときに、その一族が伊予に移ったものと思われる。
なお時光上人は元の名は源経家と称され、清和源氏の源(多田とも名のった)満仲から九代の末孫である。出家の願い固く、摂津の浄橋寺におられた派祖、西山国師の門に入り、剃髪されたものである。
遊向上人が時光上人の弟子になられたことは、このような源氏の関係があったのではないかと考えられる。多田姓は、大正三年に遷化された多田祥空上人に至るまで、代々の時光寺住職に受け継がれた。
従って流れとしては、法然上人-西山国師-時光上人-遊向上人-となり、西光寺開山の遊向上人は、法然上人から四代目の弟子に当たることになる。
西光寺二十二世、檀上仁光上人は祥空上人の甥にあたり、その縁故で、広島県、尾道から祥空上人の弟子として、時光寺へ入り、のち西光寺住職となったものである。
川越姓は明治二十九年に遷化された二十一世、川越湛隆師の弟子、川越善来師が北海道、美唄市に善来寺を開創され、以来、善来寺住職は川越姓である。
檀上姓は尾道に多く、平家筋といわれ、西光寺で源平が合一したわけである。
西光寺は当初、現高砂市伊保崎に建立されたが、後現在地に移った。移転の理由については不明である。
建造物 本堂は明治二十四年に火災にあい焼失し、同二十七年に再建された。焼失の際、本尊は外へお移しし、無事であった。山門は亨保十七年(1732)、鐘桜は天明四年(1784)にそれぞれ建立されている。
平成十三年に営まれた善導忌の記念事業として、諸建物の改築、営繕とともに、庭園研究家、西 桂先生の設計による「九品来迎之庭」が造られ、「水琴窟」が置かれた。
また京都造形芸術大学教授、李庚先生による「九華末迎山水図」が床の間と14枚のふすま絵に画かれ、庭園研究家西桂先生による「五輪之庭」が造成された。
その他
(1) 中世の豪族、赤松氏はかつて足利義教から米田の土地を拝領した。その一族の一人は赤松姓を変え、岡本三河房祐次として米田を支配し、その子孫は代々岡本藤市郎を襲名し、江戸時代はこの地の大庄屋であった。
 近年、当地が宮本武蔵と、その甥で武蔵の養子となった伊織の生誕地であることが大きく取り上げられているが、この岡本家から宮本武蔵、伊織(当時は田原家といった)の一族が出ているという説もある。西光寺には、代々の岡本家墓碑や岡本藤市郎記名の棟札などが残されている。
(2) 境内にある歴代上人塔の基壇に、県下でも珍しいといわれる「三茎蓮」の浮き彫りがある。
(3) 女優、山本富士子さんの山本家が、代々米田に居住されており、富士子さんの祖父に当たる故山本重蔵氏らの墓碑、寄進物や、母、故山本勝代様の寄進物、叔父、故山本健次郎氏の寄進碑などがある。


来迎山西光寺
〒676-0085 兵庫県高砂市米田町米田460
Phone: 090-6128-9343
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