宮本武蔵と伊織


写真:独行道碑 写真:説明板 写真:武蔵真筆と句碑 写真:田原・宮本父祖の地碑 写真:武蔵・伊織生誕地碑
独行道碑 説明板 武蔵真筆と句碑 田原・宮本父祖の地碑 武蔵・伊織生誕地碑

宮本武蔵と伊織

一、武蔵、伊織の生誕地について

 平成15年のNHK大河ドラマ「武蔵」の放映により、当地、高砂市米田町米田が宮本武蔵・伊織の生誕地であるとして来訪の方が多くなってきている。
 武蔵は江戸時代には「敵討厳流島」などの芝居、明治以後は吉川英治氏の「宮本武蔵」に代表される文学や映画、テレビなどに何度となく取りあげられている。
 これは妻子をもたず、地位財産にとらわれず、ただ剣一筋に生き、生涯、六十余度闘って敗れなかった、男としての生命を燃焼させた生き方にあこがれと共感をもつ人が多いからであろう。
 史実の上で、当地が武蔵・伊織の生誕地であることが知られてきたが、その根拠はつぎのとおりである。
『五輪書』に武蔵自身が「生国播磨の武士」と述べており、武蔵の伝記として最も有名な「二天記」にも「天正十二年二月播州に生る」と書かれている。
武蔵の甥であり、養子となった伊織が加古川市の泊神社に残している棟札に「自分たちは代々米田に住んでいた赤松家の一族で田原家と名のり、武蔵が作州の新免家を継ぎ、自分がその武蔵の養子になった」という意味のことを記録している。
伊織が建てた「小倉碑文」に武蔵のことを「播州の英産、赤松の末葉」と記している。
九州に在住の宮本家所蔵の宮本家系図、及び宮本家由緒書に「赤松家より田原家が出て、田原家は代々米田に居住し、田原甚右衛門家貞の次男が武蔵であり天正年間に新免(宮本)無二之助の養子になった」と書かれている。
 なお伊織の弟、玄昌は、母方の姓、小原家を継ぎ代々医者として小倉に居住し、現在その子孫の方は病院の経営者である。
 またこの系図の記述と合致しているのが、「泊神社棟札」であり、小倉にある宮本家の墓地には、田原家のお墓もあり、法名も系図と一致している。
 これらの史料が「武蔵が播州高砂生まれ」であることの大きな根拠になっている。
 なお米田からなぜ遠い作州へ養子にいったのかということであるが、武蔵研究家、故丸岡宗男氏の研究によればつぎのとおりである。
 花山天皇に仕えた北面の武士に小原高光という人がいた。花山天皇は退位後法皇となり、三田市に花山院、荘園があった作州、英田郡大原に慈源寺を開基された。そして両方の寺領等の土地を管理していたのが小原高光と、その子孫の摂津、美作の両小原家であり、相互に婚姻関係があったようである。
 時代は下って武蔵の嫂であり、伊織の母である理応院は、この摂津有馬郡小原の領主、小原家の生まれである。一方養父となった新免無二之助はもと平尾、小原とも称した。「武蔵養子の秘密はこの小原ー小原にあった」と丸岡氏は述べている。
 なお理応院の父、信利、兄、信忠はそれぞれ戦いで討ち死にした。
このことが理応院が子の伊織、医者になった小原玄昌たちに剣をとらせなかった理由とも考えられている。


二、武蔵と「五輪書」

 「五輪書」は、米国では経営学の参考書として、またフランスなどでは武士道というか、騎士道というか、サムライの心を伝えたものとして高く評価されているようである。
 その五輪書のなかに「見の眼弱く、観の目強く」という言葉がある。
 見とは形があるものを肉眼で見ること、観とは形のないものを、いわゆる心眼で見ることであり、つまり表面的なものにまどわされないで、本質的なものを十分把握することが大切だということであろう。
 たとえば一乗寺下り松での吉岡一門との闘いでは、試合の場に現われたのは名目人吉岡又七郎を中心とした数人の者であった。しかしその背後には何十人という吉岡の門弟たちが弓、鉄砲を持ち潜んでいたのである。
 武蔵はそれを察知していたから、うまく切り抜け、勝利を得ることができたのである。
 仏教でたとえると「仏像といっても、もともと木で作られたものじゃないか。また紙に書いてあるだけだ。お地蔵さんといっても、あれは石じゃないか。そんなものが何がありがたいんだ」という人があるかもしれない。
 そのような人は見の目が強いどころかすべてで、観の目をもたない人だといえるかもしれない。
 その他、日常生活の色々な場において、見えない背後の世界を知ることは大切なことであろう。

三、武蔵と「独行道」

 最近、右脳人間ということがよく言われるが、左脳が論理的なことを知るのに対して、右脳は感覚的な面を知ると言われる。
 武蔵は絵筆の運びかたから左利きではなかったかという説もあるが、脳と手の働きは左右反対であるので、彼が絵画、彫刻、作庭、連歌など芸術を主にした感覚的な方面に優れていたこともうなずける。
 荒木又右衛門は剣豪であり、武蔵は剣聖といわれる。
 剣豪と剣聖はどう違うのか。
 武蔵も二十九才の時に佐々木小次郎に勝ったことで終っておれば剣豪であったかも知れない。
 しかし彼は後半生を殺人剣から活人剣、仏教、とくに禅を通じて人間的に成長していったことが、世人に剣聖とうたわれるまでになったのであろう。
 彼の残したものに「独行道」がある。
ー、世々の道を背くことなし。
ー、身にたのしみをたくまず。
ー、よろずに依怙(えこ)の心なし。
ー、身を浅く思ひ世を深く思ふ。
ー、一生の間欲心思はず。
ー、我事において後悔をせず。
ー、善悪に他をねたむ心なし。
ー、いずれの道にも別れを悲しまず。
ー、自他ともに恨みかこつ心なし。
ー、恋慕の道思いよる心なし。
ー、物事に好きこのむ事なし。
ー、私宅において望む心なし。
ー、身ひとつに美食を好まず。
ー、末々代物なる古き道具所持せず。
ー、我身にいたり物忌みすることなし。
ー、兵具は格別余の道具たしなまず。
ー、道においては死を厭はず思ふ。
ー、老身に財宝所領もちゆる心なし。
ー、仏神は貴し仏神を頼まず。
ー、身を捨てても名利はすてず。
ー、常に兵法の道を離れず。
 これらはある意味では悟りすました禅僧の言葉のようでもあるが、武蔵の人生はその反対ではなかっただろうか。
 武蔵は生まれるのが遅すぎたといわれる。
 世が戦国時代であれば、大名になることも可能であっただろう。
 しかし武蔵が生きた頃はもはや幕藩体制が整ってしまっていた。彼としては赤松氏の栄光を思い、一国一城の主を夢見たこともあったであろう。
 また好ましい女の人を知り、その人と結婚して家庭を持ちたいと思ったこともあるであろう。
 しかし一定の住所も持たず、おのれ一人、剣一筋を頼りに煩悩と苦しみに耐えながら歩む人生であったに違いない。
 そしてそれらを超越し、「煩悩即菩薩」という心境にやっと到達したのが死の直前であり、その時残したものが『独行道』であると思われる。
 そこに我々は偉人でもなければ剣聖でもない、後悔しながら生きぬいていった一個の人間を見るのであり、それが武蔵の魅力でもあろう。

四、伊織について

 武蔵の死後、百十年後に書かれた『二天記』という書物がある。これは武蔵の記録としては、一番信頼できるものと従来は考えられてきた。
 そのなかに、伊織は武蔵が出羽国、正法寺原を旅している時に、道の側でどじょうを取っている少年を見つけて、見所があるとして、養子にした者であるとしている。しかし伊織が播州、高砂の生れであることは、泊神社の棟札、寄進した三十六歌仙の額や鰐口などで明らかである。
 伊織についてはあまり知られていないようであるが、小笠原家に仕え、若干二十才で譜代の重臣をさしおいて、家老の要職につき、後に筆頭家老(四千石)になったということは武蔵の影響があったことは十分考えられるが、彼の能力も並々ならぬものであったことが伺われる。
 また伊織が小倉碑文、棟札、宮本家系図などを残しているからこそ、武蔵のことが後世まで残っているのであるとも考えられる。

五、武蔵・伊織と文武両道について

 武藏は剣術だけではなく、五輪書という立派な書物を残し、また書道、絵画、造園など、芸術的なものにも立派なものを残している。いわば文武両道であった。
 また別の見方では武蔵の中に文武両道があり、武蔵、伊織の中に文武両道があり、これは現代のことばでは学習とスポーツ、また別の意味では「心とからだ」であるともいえよう。
 青少年の方には学業向上、スポーツや芸術的分野での技能上達、精神錬磨、成人の方には心身調和と、不敗の人生を歩んだ武蔵のように自信を持って必勝の人生を歩んで頂きたいものである。

六、武蔵、伊織についての史料

(ア)武蔵の著「五輪書」に「生国播磨の武士、新免武蔵、藤原玄信、年つもりて六十」と述べている。

(イ)泊神社棟札(武蔵の養子、伊織が社殿建立時に奉納)
「自分(伊織)の先祖は、六十二代、村上天皇の第七皇子、具平親王に出て赤松氏に及んだ。高祖、持貞の時代に家運振わず、以来、播州印南郡河南庄米堕邑に引き篭もって田原の姓を名のるようになった。一方作州の新免氏を継承した宮本武蔵玄信には子がなかったので、自分が養子になった」

(ウ)宮本家系図(第十三代、宮本信男氏所蔵)

赤松刑部太夫持貞─田原中務少輔家貞─某─某─甚右衛門家貞─┐
┌────────────────────────────┘
└─┬──甚兵衛久光─┬──吉久(大山茂右衛門)
  │        ├──貞次 (伊織)武蔵の養子となる
  │        ├──巳之助(早世)
  │        ├──小原玄昌
  │        └──田原庄左衛門正久
  └──宮本武蔵玄信───伊織貞次

※武蔵の項には次のように記されている。

 天正十壬午年生 新免無二之助一真の養子となる。よって新免と号す。後宮本と改む。
 よく剣術をもって世に著る。
 正保二乙酉年五月十九日、肥後国熊本に於いて卒す。享年六十四。
 兵法天下無双赤松末流、法名武蔵玄信二天居士


来迎山西光寺
〒676-0085 兵庫県高砂市米田町米田460
Phone: 090-6128-9343
All Contents Copyright(C)2000 Saikouji